2010年06月23日
6/18(金) ソウェト〜音楽があふれた路上にて
市内からソウェトまで車で30分ほど。途中、車を追突されたものの、ドライバーは一瞥をくれただけで、そのままスルーした。こんなのありなのか…。サッカーシティースタジアムをこえるとソウェトはすぐだ。
10年以上前に南アフリカを訪れたとき、ヨハネスブルグは敬遠して立ち寄らなかったのだが、ケープタウン垣間みたタウンシップは、トタン葺きの長屋のバラックで、見るからにスラムという印象だった。しかし、車窓から見えるソウェトの町並みは、とても整然としている。

まず、訪ねたのは、ソウェト蜂起の記念碑がある広場。13歳のヘクター・ピーターソンという少年が最初の犠牲になったということだった。次に訪ねたのは小さな孤児院。様々な人たちのサポートを受けながら10人の孤児たちが暮らしていた。それぞれが突然の外国人の来客に、どこか戸惑いを隠せない様子だった。今回届けた楽器が、彼らにとってのかすかな光にでもなってくれればいいのだが…。
そしてタイニーさんの家へ。私たちを迎えたてくれたのは、通りににぎやかに鳴り響く音楽だった。車を降りるや、近所の若者たちが、ジャンベのリズムにあわせて、抜群のハーモニーを披露してくれた。タイニーさんが呼びかけておいてくれたのだ。玄関先でのひとしきりのパフォーマンス。それは場所を変えてさらに続いた。男性のコーラスグループ、女性のダンスチーム…。歌、ダンス、寸劇、路上でのパフォーマンスは、おそらく3時間近く続いた。みんなとにかく歌やダンスが大好きで、人前で披露したくて仕方がないのだ。タイニーさんのご主人のバファナさんは「ここの子どもたちは、みんなすごい才能があるんだ」と話す。しかし「その才能をきちんと伸ばすサポートをする形作りはまだまだだ」とも。実際に、今回楽器を届けはしたものの、実際に子どもたちに教えるという環境づくりまではできておらず、一つの課題である。それでも確かな一歩であることに変わりはない。
パフォーマンスが一通り終わって、庭先のテーブルで昼食をいただいた。初めての本物のアフリカ料理。モツを不思議な味で煮込んだ料理や、ピリ辛の味付けの野菜、豆料理、バーベキューチキン、etc。どれも非常に美味しかった。

ワールドカップの期間中、南アフリカの学校は冬休みなのだそうだ。平日なのに子どもたちがわんさかいるのはそのためだ。でも同じくらいの大人たちも道ばたで油を売っている。それは十分に仕事がないためなのか…。今、この通りに立って周囲を見回しても、見えない問題は多く、深い。
一方では、駐車場にBMWやベンツが停まり、衛星放送を受信するパラボラアンテナが立つうちもある。携帯電話も沢山の人が当たり前に持っている。後からみた飛行機に機内誌の記事には、「ソウェトでも、リッチなミドルクラスの人が増えている」と書かれていた。「かつては、成功すればソウェトを出ていくのが当たり前だったのが、最近は戻ってくる人も多い」と。その理由は濃密なこの町のコミュニティが魅力的というものだった。ここには巨大な資本が入ってくるようすはないが、ニューヨークのハーレムが、そうした風に見直されているのに近くとも遠からずという感じだろうか。こうした変化がどんな影響を与えるのか、少し興味がある。今回届けた楽器が、少しでもこの町の光になってくれればよいと思う。

帰り道、ソウェトに滞在する松永さんとセバスチャンと別れて、バファナさんに乗り合いのミニバスに同乗してもらってダウンタウンに戻る。今日ソウェトで触れられたのは、ごく一部なのだが、どこかにあったヨハネスブルグという街そのものに対する微妙な先入観の一部がはがれ落ちた気がした。それは、かつてはスラムとよばれた町の人々の営みを、すぐ近くに感じることができたからなのだと思う。
10年以上前に南アフリカを訪れたとき、ヨハネスブルグは敬遠して立ち寄らなかったのだが、ケープタウン垣間みたタウンシップは、トタン葺きの長屋のバラックで、見るからにスラムという印象だった。しかし、車窓から見えるソウェトの町並みは、とても整然としている。

まず、訪ねたのは、ソウェト蜂起の記念碑がある広場。13歳のヘクター・ピーターソンという少年が最初の犠牲になったということだった。次に訪ねたのは小さな孤児院。様々な人たちのサポートを受けながら10人の孤児たちが暮らしていた。それぞれが突然の外国人の来客に、どこか戸惑いを隠せない様子だった。今回届けた楽器が、彼らにとってのかすかな光にでもなってくれればいいのだが…。
そしてタイニーさんの家へ。私たちを迎えたてくれたのは、通りににぎやかに鳴り響く音楽だった。車を降りるや、近所の若者たちが、ジャンベのリズムにあわせて、抜群のハーモニーを披露してくれた。タイニーさんが呼びかけておいてくれたのだ。玄関先でのひとしきりのパフォーマンス。それは場所を変えてさらに続いた。男性のコーラスグループ、女性のダンスチーム…。歌、ダンス、寸劇、路上でのパフォーマンスは、おそらく3時間近く続いた。みんなとにかく歌やダンスが大好きで、人前で披露したくて仕方がないのだ。タイニーさんのご主人のバファナさんは「ここの子どもたちは、みんなすごい才能があるんだ」と話す。しかし「その才能をきちんと伸ばすサポートをする形作りはまだまだだ」とも。実際に、今回楽器を届けはしたものの、実際に子どもたちに教えるという環境づくりまではできておらず、一つの課題である。それでも確かな一歩であることに変わりはない。
パフォーマンスが一通り終わって、庭先のテーブルで昼食をいただいた。初めての本物のアフリカ料理。モツを不思議な味で煮込んだ料理や、ピリ辛の味付けの野菜、豆料理、バーベキューチキン、etc。どれも非常に美味しかった。

ワールドカップの期間中、南アフリカの学校は冬休みなのだそうだ。平日なのに子どもたちがわんさかいるのはそのためだ。でも同じくらいの大人たちも道ばたで油を売っている。それは十分に仕事がないためなのか…。今、この通りに立って周囲を見回しても、見えない問題は多く、深い。
一方では、駐車場にBMWやベンツが停まり、衛星放送を受信するパラボラアンテナが立つうちもある。携帯電話も沢山の人が当たり前に持っている。後からみた飛行機に機内誌の記事には、「ソウェトでも、リッチなミドルクラスの人が増えている」と書かれていた。「かつては、成功すればソウェトを出ていくのが当たり前だったのが、最近は戻ってくる人も多い」と。その理由は濃密なこの町のコミュニティが魅力的というものだった。ここには巨大な資本が入ってくるようすはないが、ニューヨークのハーレムが、そうした風に見直されているのに近くとも遠からずという感じだろうか。こうした変化がどんな影響を与えるのか、少し興味がある。今回届けた楽器が、少しでもこの町の光になってくれればよいと思う。

帰り道、ソウェトに滞在する松永さんとセバスチャンと別れて、バファナさんに乗り合いのミニバスに同乗してもらってダウンタウンに戻る。今日ソウェトで触れられたのは、ごく一部なのだが、どこかにあったヨハネスブルグという街そのものに対する微妙な先入観の一部がはがれ落ちた気がした。それは、かつてはスラムとよばれた町の人々の営みを、すぐ近くに感じることができたからなのだと思う。
Posted by ryujinoda at 17:44│Comments(0)
│FIFAワールドカップ2010南アフリカ大会
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